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サイトイの語れるだけ語るブログ。ジャンルは★ロック★映画★文学★

「ロックンロール」という言葉は、壁を壊す力を持って生まれた

1950年代初頭、アメリカは人種差別が厳然と存在していました。

南部では、差別を正当化する法律が制定され、バスに乗るときも、映画を観るときも、レストランで食事をするときも、座席は、白人と以外で分けられていました。

居住区も学校も教会もホテルも区別されていました。

北部では、建前上は平等だが、同様の差別がありました。

 

音楽を聴くことも平等ではなく、ラジオ局も分かれていました。

・リズム&ブルース(R&B黒人用のチャート

・カントリー&ウエスタン(C&W)白人用のチャート

・ポップチャート全米チャート

 

そんな中、人種の枠を超えて大きな広がりを見せたのがR&Bでした。

R&Bは黒人音楽から生まれてきたんですね。

R&Bはレイスミュージックと差別的に呼ばれてきました。

 

1940年代なかば、白人の若者は黒人ラジオ局から流れる音楽を聴き始めていました。

でも、人種差別は、それぞれのアイデンティティにも関わることだったので、なかなかレイスミュージック(R&B)は黒人の音楽文化そのものを表す言葉で、白人社会にすんなり入ってはいきませんでした。


それを壊すことができたのが、「ロックンロール」という言葉でした。

 

ロックンロール・・・1930年代頃から黒人ブルースナンバーでセックスを意味するスラングとして使われていました。

それが、次第に黒人のR&Bをさす言葉として使われるようになりました。

 

「ロックンロール」という言葉を音楽用語として広めたのは、北部のオハイオ州クリーブランドのWJW局で、白人向けの音楽番組をやっていたDJアラン・フリードが取り上げたりしていました。

アラン・フリードは、19517月に「レコード・ランデブー」を「ムーンドック・ロックンロール・パーティ」と番組を改変し、スタートさせました。

そして、黒人R&Bをロックンロールと名付けてラジオを流し始めました。

 

番組の人気は高まり、フリードは黒人ミュージシャンをゲストにロックンロールのダンスパーティを各地で開催します。

 

1954年には、ニューヨークのWINS局のメインDJになり黒人のR&Bは白人の若者に定着していきました。

 

各地で行われるロックンロール・パーティーは人種を超えて、予想以上の人が集まり、入場できない若者が沢gだし暴動状態になることもありました。

 

そんな盛り上がりをみて、白人の音楽業界組織は、メトロポリタン・ディスク・ジョッキー・クラブなど2団体を発足しました。

「下品なレコードのオンエアに歯止めをかけよう」と呼びかけます。

 

しかし!

フリードは、白人カバーではなく、黒人のオリジナルをかけるように呼びかけます。

(当時は黒人の曲を白人がカバーしてそれをラジオでかけたりしていました。)

 

こうして、白人の若者がロックンロールに歩み始めるきっかけを作りました。

黒人のR&Bがロックンロールと呼ばれることで、白人の若者に浸透していき、名曲がたくさん生まれました。

 

ロイド・プライス「ローディー・ミス・クローディ」

ロイド・プライスは「スタッガー・リー」という曲を歌ってる。スタッガー・リーとは怖い男の人のこと

 

ビックママ・ソーントン「ハウンド・ドッグ」

この曲は、ジェリーリーバー&マイク・ストーラー(白人のシンガーソングライター)が黒人シンガーに贈り大ヒットしました!

 

ファッツ・ドミノ「ゴーイン・ホーム」

 

それまでのアメリカ・チャートでは、R&Bチャートに入る曲が、白人対象のポップチャートやカントリーチャートに入ることはありませんでした。

1952年ごろからそれが崩れ始めました。それはDJのアラン・フリードのおかげでもありました。

 

19566月にはジョー・ターナー「シェイク・ラトル・アンド・ロール」

7月にはThe Cords(コーズ)の「Sh-Boom(シュブーン)」がR&Bチャート・全米チャートの両方で大ヒットします。

 

1952年からロックンロールの歴史を語る理由は、人種を超え、黒人のR&Bと総称される音楽が白人によってロックンロールと呼ばれて、「ロックンロール」は生まれたからです。