サイトーク

サイトイの語れるだけ語るブログ。ジャンルは★ロック★映画★文学★

野いちご(1957年)

 
出演:ヴィクトル・シェーストレム、イングリッド・チューリン 撮影:グンナール・フィッシェル
1957年/スウェーデン/スタンダード/91分
 
 

スタンリー・キューブリックがベスト映画に選んだということで観てきました。 

 

終わった瞬間に、えってなる映画でした。まだ続くのかと思ったけど、冷静に考えれば、いい終わり方、素晴らしい終わり方でした。

映画のテンポが良いので、飽きずに見られたし、食い入るように後半は見てしまっていた自分に見終わった後に気づいた……

『野いちご』は誰にでも起こりうる普遍的なストーリーや感情の変化なので、感情移入しやすかったのかもしれません。

 

最初の夢のシーンは、明るさが圧倒的に違ったので、夢のシーンはこんな感じで区分けるのか、と思っていたのだが、そういうわけではなかった。

最初の夢のシーンだけ、意味合いが違う気がしたので、そこにいろいろと意味があるんだろう、わたしには読み取れなかったので、他人のレビューを参考にします。(わかったら追記します)

 

少しだけ怖かったのは、年中ケンカをしているというアルマン夫婦の会話は聞いていられなかった。あんな夫婦生活がこの世にあると思うと怖すぎる。人格が理解できなくて苦しんだ。

 

主人公演じるヴィクトル・シェーストレムは表情は、鏡を見せられて、苦しいという時の表情がなんともいえぬ感じで、印象深かった。

でも、鏡を持っているサーラのシーンがすごい、あからさま、な気がしてシーンとしてはどうなんだろうと思う。

すごくわかりやすい感じがして、逆によろしくないような気がする。

 

この映画のテーマは、人間関係、ひいては「孤独」にまつわること。(ほかにも「死」や「老い」などありますが、ベルイマンおなじみのテーマらしい)

最近、読んだブログに「孤独と健康」に関する論文を精査したら、「人間関係が良好だと、最大で寿命が15年も延びるかもしれない」というようなことが書いてあって、孤独なイーサク  、死んじゃうよ、と思いながら見つめてしまった。

「孤独」というのを考えたとき、自分が愛する身近にいる人より、ガソリンスタンドの若夫婦や3人の乗り合いの若者の方が親切にしてくれるということが描かれている。

家政婦のアグダとのやりとりや、息子の嫁のマリアンとの車でのやりとりは、少しだけ微笑ましく、そして、人間関係について、よく表したやりとりだった。

マリアンが車の中でイーサクのことを冷淡だと罵るシーンは、とても家族らしいやりとりだ。

それを見て、小津安二郎の『東京物語』を思い出した。

あの映画も、身内の家族ではなく、少し距離の離れた未亡人の紀子が血の繋がった家族よりも親切にしてくれる。

このような、自分が愛する人たちに受けいれられない寂しさは、孤独感を引き立たせてくれる。

『野いちご』での最後に海岸で微笑む若い両親の夢のシーンは、イーサクの全てが受け入れられていた時間で、「孤独」とは無縁の懐かしいときだった。

「心配事や悲しいことがあるときは、子供の頃を思い出して、慰めている。」という最後の部分は、「生きている自分」と、どう過ごしていくかの答えのようなシーンだと思う。

 

マリアンが、「この老女はまるで屍のよう。でも生きてる。死よりも恐ろしい。そして息子。まったく逆。生きながら死んでいる。孤独で冷たい屍。この孤独と死が脈々と続いてしまう。」というセリフはむずかしいよ!

 

「2人のどちらを選ぶんだい?」というイーサクからサーラの質問にはただ単純にどちらの男性を選ぶのか?という側面よりは、過去の自分とシーグフリドどちらを選ぶのか?という質問が重ね合わされている。

三人の若者は、在りし日のイーサクたちと重なっている。

授賞式後に三人がお別れの歌を歌いに来る。最後に、サーラは、2人のボーイフレンドではなく、イーサクが一番好きといって去っていく。それこそ、「夢のような」現実なんですね。きっと。

ありえなかった「過去」と夢のような現実の「いま」が重なり合っている。

もう一度やり直すことはできないけれど、いま、ここで、そう言ってくれるなら、負の感情を伴わずに肯定し、すべてを捉えることができるかもしれないと思えるシーンでした。

「またね」というイーサクは切なくて、そしてもどかしくて、そして幸せそうだった。

人生の黄昏どき、年老いたらまた観てみます。

 

ちなみに、『野いちご』はビクトル・シェストレム、最後の作品だそうです。

 

--------

2018.7.30 YEBISU GARDEN CINEMAにて。