サイトーク

サイトイの語れるだけ語るブログ。ジャンルは★ロック★映画★文学★

仮面/ペルソナ(1966年)

 
出演:ビビ・アンデション、リヴ・ウルマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト
1966年/スウェーデン/スタンダード/82分

 

監督は、『野いちご』のイングマール・ベルイマン
『野いちご』のサーラ役だったビビ・アンデションが出ています。

この作品のタイトルは、心理学者ユングの「ペルソナ」が由来となっています。

ペルソナとは?

ペルソナ(英: persona)とは、カール・グスタフユングの概念。ペルソナという言葉は、元来、古典劇において役者が用いた仮面のことであるが、ユングは人間の外的側面をペルソナと呼んだ。ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。逆に内界に対する側面は男性的側面をアニマ、女性的側面をアニムスと名付けた。(wikipediaより)

あらすじ

失語症に陥ったスター女優と、彼女を看病することになった看護婦。海辺の別荘でふたりだけで生活していくうちに、お互い自意識の“仮面”が剥がされ、溶け合い、交錯していく…。「映画」と名付けられる予定だった本作は、ベルイマンによる映画論だ。終生にわたるパートナーとなったリヴ・ウルマンとは、本作でベルイマンに見出され、以降共に傑作を生み出してゆくことになる。(ベルイマン100周年映画祭より)

 

本作品は、人間の「外的側面」と「内的側面」について描いています。
本心と建て前についてどう折り合いをつければ良いのか?ということを提議しています。

私は、冒頭のモンタージュが、シュールレアリスム的だし、二人芝居で進んでいくストーリ、会話劇(会話ではないけれど)っぽいので、あまり感情移入ができませんでした。それに、そういう映画ではないんですね。
ピンと張り詰めたまま82分間。

他の人のレビューで看護婦のアルマはすごいしゃべるって書いていたのを見てから鑑賞。おしゃべりおばさん的なのをイメージしていたけれど、全然違いました。セリフで全部説明するとか、野暮なことをしているわけではないのですが、家政婦のアルマは自分語りをする(主人公のエリサベートは失語症なので)ので、たくさん喋ってますね。
アルマが怒って、洗面台で泣いてるシーンだけは、アルマに共感できたと思う。
ただ悲しくて、それで怒りがこみ上げてくるというのは実に人間らしくて、共感できるシーンでした。

アルマが、カテリーナという友達と海辺で裸で寝たいた時の話をするシーンは、部屋の雰囲気や、アルマのしゃべり方が、艶っぽく美しかった。

アルマが、割れたガラスの破片をわざと庭におき、エリサベートが、破片を踏んで足を怪我するというシーンは感情の見せ方が、巧いなと思いました。カーテンから半分だけ顔を出すアルマの表情はとても怖かった。

夫が訪ねてくるところでは、夫は、アルマをエリサベートと間違えつづけ、アルマはエリサベートを演じます。え!演じるのかい!と思いましたけど、話は進みます。
エリサベートの目の前で、夫が言って欲しいこと、妻としての良い姿をアルマが演じるのです。このシーンは、人間の「外的側面」と「内的側面」についてわかりやすく描いたシーンです。

本作品の象徴的なシーンは、エリサベートが破いた息子の写真を隠し持っていて、アルマはそれを見て、息子のことを話してほしいと彼女に求めます。しかし、エリサベートは、それを、断ります。するとアルマはエリサベートに代わって、知らないはずの彼女の過去について事細かに語り出しところです。このシーンは、セリフが、長いのに2回繰り返す演出が面白かったし、こういう見せ方があるのかと。2回目の語りは、一瞬、飽きてくるんだけど、だんだん、ふたりの重なりが深く見えてくる。深く感じられるという感覚になれたのは自分自身、驚きました。
半分に割るシーンは個人的にはいらないと思います。それがなくても充分、理解ができると感じたので。そして、このシーンは、おそらくエリサベートの妄想に近いものなのではないでしょうか。

私が、もっとも印象的だったシーンは酔ったままテーブル上で寝てしまうアルマ。すると一瞬エリサベートの声が聞こえ(喋るはずがないのに)、寝室に移動した後も彼女が訪れるシーン。
部屋の光の使い方が、素晴らしくて、息を飲むシーンでした。モノクロの美しさがとても際立っていました。
エリサベートの身のこなし方も、すごく美しく淡い感じが素晴らしかった。夢と現実の狭間ってこんな感じ、というシーン。

本の内容を伝えるために、ベルイマンは、繰り返し、本作のテーマである人間の「外的側面」と「内的側面」について、複数の登場人物に見解を語らせています。
婦長がエリサベートに告げるシーン。
「本当の自分でいたいと思っているのね。すべてが演技、自意識にとらわれている 沈黙することで現実を遮ろうとしている。でもダメよ、安心できるのは演技をしているときだけなのだから、気が済むまで芝居を続けなさい。」
アルマが自分語りをするシーン。
・アルマには五年つきあった妻子持ちの彼氏がいた。今は分かれたが、あれは嘘の自分だったと言う。でも苦しみは本物だった。
・カテリーナという友達と海辺で裸で寝たいた時の話。あの時の私はなんだったのか?自分の中にふたつの人格があるのかしら?と泣きます。
・アルマはエリサベートに「どうして本当の自分で生きていかなければならないのか?」を問います。
などなど。

この作品について考えるにあたっての大きな謎は、2人はいったい実在するのか?同一人物なのか?どちらかが妄想の存在なのか?ということだと思います。

この作品が生まれるきっかけは、「私とよく似た女優がいるの。あなたの好みだわ」とビビ・アンデションがベルイマンに紹介し、2人がよく似ていることから思いついた作品だそうです。

そして、他の方のレビューで、2人は同一人物なのか?という問いに対して、
「ふたりいるように見せている」のではなく、実は逆に「ひとりしかいないと思えるように見せている」のではないか?という見解がありました。これに、すごくグッときた。
2人が、別の方向を向いて、背中合わせになっているような状態で、実は非常に近い場所に(一緒の場所に)いる現象がおきているのではないだろうか、と。
2人は別々の人間として存在しているはずなのに、お互いのアイデンティティが混ざり合い、お互いに、ひとりしかいないような気がしてくる。そして、2人は実在するが、お互い混ざり合い1人に(同じ場所にいる)なっていくということへの葛藤が描かれている。

 

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2018.7.30 YEBISU GARDEN CINEMAにて。