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夏目漱石『門』 #心に残る一文たち

概要

宗助は、かつての親友である安井の妻である御米を得たが、その罪ゆえに、ひっそりと暮らさざるをえなかった。やがて安井の消息が届き、大家の坂井のもとを訪れることを聞く。宗助は救いを求めるために鎌倉へ向かい参禅したが、結局悟ることはできず帰宅する。

この作品は、『三四郎』『それから』とともにいわゆる前期三部作をなす作品で、その最後にあたる。社会から逃れるように暮らす夫婦の苦悩や悲哀を描写している。
『門』の連載終了後、漱石は胃潰瘍のため入院。そして、修善寺の大患を経験し、後期三部作のような作風に変わっていきます。

 

心に残る一文

天気が好いと、
「ちと散歩でもしていらっしゃい」と云う。雨が降ったり、風が吹いたりすると、
「今日は日曜で仕合せね」と云う。

「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心ある妻の口を藉りて、自分を翻弄する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口を噤んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達の拵えた、過去という暗い大きな窖の中に落ちている。

 

「買手にも因るだろうが、売手にも因るんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、余り安いようだね」
 宗助は抱一の屏風を弁護すると共に、道具屋をも弁護するような語気を洩らした。そうしてただ自分だけが弁護に価しないもののように感じた。御米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。

 酒井抱一(さかいほういつ)は、光琳作「風神雷神図屏風」の裏側を描いた人。
抱一は、尾形光琳の作品に強烈に惹かれて絵師になり、生家からの依頼で「風神雷神図屏風」の裏側を描きました。
小説の中で言われているのは、「月に秋草図屏風」でした。



それには風碧落を吹いて浮雲尽き、月東山に上って玉一団とあった。宗助は詩とか歌とかいうものには、元から余り興味を持たない男であったが、どう云う訳かこの二句を読んだ時に大変感心した。対句が旨くできたとか何とか云う意味ではなくって、こんな景色と同じような心持になれたら、人間もさぞ嬉しかろうと、ひょっと心が動いたのである。

 「風碧落を吹いて浮雲尽き、月東山に上って玉一団」とは、福田雄太郎(珠水)の七言対句のことです。風が青空を吹きわたり、浮雲は消え去る。青い山の上に月が出た。たくさんの宝石を集めたような月が。という訳になります。

 

こう穏やかに寝かされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないと云う事を発見した。そればかりか、肩も背も、腰の周りも、心安く落ちついて、いかにも楽に調子が取れている事に気がついた。彼はただ仰向いて天井から下っている瓦斯管を眺めた。そうしてこの構と設備では、帰りがけに思ったより高い療治代を取られるかも知れないと気遣った。

 

宵の口から寂としていた。夫婦は例の通り洋灯の下に寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らして行く裡に、自分達の生命を見出していたのである。

 

「高木の細君は夜具でも構わないが、おれは一つ新らしい外套を拵えたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋が薦で盆栽の松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」「外套が欲しいって」「ああ」 御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云う風に、「御拵らえなさいな。月賦で」と云った。宗助は、「まあ止そうよ」と急に侘しく答えた。

 この一節のわびしさが響いた。 

「また靴の中が濡れる。どうしても二足持っていないと困る」と云って、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿いて、洋袴の裾を一寸ばかりまくり上げた。 午過に帰って来て見ると、御米は金盥の中に雑巾を浸けて、六畳の鏡台の傍に置いていた。その上の所だけ天井の色が変って、時々雫が落ちて来た。「靴ばかりじゃない。家の中まで濡れるんだね」と云って宗助は苦笑した。

 

円明寺の杉が焦げたように赭黒あかぐろくなった。天気の好い日には、風に洗われた空の端ずれに、白い筋の嶮しく見える山が出た。年は宗助夫婦を駆って日ごとに寒い方へ吹き寄せた。朝になると欠かさず通る納豆売の声が、瓦を鎖す霜の色を連想せしめた。宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。

 

 

「なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい」
「つまり吝なんでしょう。早く悪くなるから」
 宗助は笑い出した。彼はそのくらい吝嗇な家主が、屋根が漏ると云えば、すぐ瓦師を寄こしてくれる、垣が腐ったと訴えればすぐ植木屋に手を入れさしてくれるのは矛盾だと思ったのである。

 からの、

その晩宗助は到来の菓子折の葢ふたを開けて、唐饅頭とうまんじゅうを頬張ほおばりながら、
「こんなものをくれるところをもって見ると、それほど吝けちでもないようだね。他の家の子をブランコへ乗せてやらないって云うのは嘘だろう」と云った。御米も、
「きっと嘘よ」と坂井を弁護した。

 二人の坂井に対する心情の変わりようが、貧しさをよくあらわしているようで、心淋しくなった。

 

この秋海棠は杉垣のまだ引き抜かれない前から、何年となく地下に蔓っていたもので、古家の取り毀たれた今でも、時節が来ると昔の通り芽を吹くものと解った時、御米は、
「でも可愛いわね」と喜んだ。 

 

「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」と云いながら、小六は巻いた小口を一尺ほど日に透かして、二三度力任せに鳴らした。
「そう? でも宅じゃ小供がないから、それほどでもなくってよ」と答えた御米は糊を含ました刷毛を取ってとんとんとんと桟の上を渡した。

 

「全くね。これじゃ誰だって、やって行けないわ。御肴の切身なんか、私が東京へ来てからでも、もう倍になってるんですもの」と云った。肴の切身の値段になると小六の方が全く無識であった。御米に注意されて始めてそれほどむやみに高くなるものかと思った。
 小六にちょっとした好奇心の出たため、二人の会話は存外素直に流れて行った。御米は裏の家主の十八九時代に物価の大変安かった話を、この間宗助から聞いた通り繰り返した。その時分は蕎麦を食うにしても、盛かけが八厘、種ものが二銭五厘であった。牛肉は普通が一人前四銭で、ロースは六銭であった。寄席は三銭か四銭であった。学生は月に七円ぐらい国から貰えば中の部であった。十円も取るとすでに贅沢と思われた。
「小六さんも、その時分だと訳なく大学が卒業できたのにね」と御米が云った。
「兄さんもその時分だと大変暮しやすい訳ですね」と小六が答えた。 

 

宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味く暮した事はなかった。言逆に顔を赤らめ合った試はなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。彼らは山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた。

それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日を倦まず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かな背を向けた結果にほかならなかった。外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。彼らは大きな水盤の表に滴たった二点の油のようなものであった。水を弾いて二つがいっしょに集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評する方が適当であった。
 彼らはこの抱合の中に、尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満と、それに伴なう倦怠とを兼ね具えていた。そうしてその倦怠の慵い気分に支配されながら、自己を幸福と評価する事だけは忘れなかった。倦怠は彼らの意識に眠のような幕を掛けて、二人の愛をうっとり霞ます事はあった。けれども簓(ささら)で神経を洗われる不安はけっして起し得なかった。要するに彼らは世間に疎いだけそれだけ仲の好い夫婦であったのである。
 彼らは人並以上に睦ましい月日を渝らずに今日から明日へと繋いで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まじがる心を、自分で確と認める事があった。その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳月を溯のぼって、自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪ずいた。同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁の香を焚く事を忘れなかった。彼らは鞭たれつつ死に赴くものであった。ただその鞭の先に、すべてを癒やす甘い蜜の着いている事を覚ったのである。

 

 

「君は身体からだが丈夫だから結構だ」とよくどこかに故障の起る安井が羨うらやましがった。 

これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食えるようにできた、重宝で健康な男であった。 

安井が宗助に対する羨望と、宗助が宜道を羨む様子は、夏目漱石が、『門』を執筆中に体調が思わしくなく、執筆後、胃潰瘍となり入院したことの影響があるように思われる。

 

 父の云いつけで、毎年の通り虫干の手伝をさせられるのも、こんな時には、かえって興味の多い仕事の一部分に数えられた。彼は冷たい風の吹き通す土蔵の戸前の湿っぽい石の上に腰を掛けて、古くから家にあった江戸名所図会と、江戸砂子という本を物珍しそうに眺めた。  

 江戸名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

江戸砂子温故名蹟誌 6巻. [3] - 国立国会図書館デジタルコレクション

 この場面を読んだときに宇野浩二の『蔵の中』の着物を眺める場面を想像した。

  

 立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求通り、普通の旅費以外に、途中で二三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣を渡して、
「なるたけ節倹しなくちゃいけない」と諭した。
 宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時のごとくに聞いた。父はまた、
「来年また帰って来るまでは会わないから、随分気をつけて」と云った。その帰って来る時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。そうして帰って来た時は、父の亡骸がもう冷たくなっていたのである。宗助は今に至るまでその時の父の面影を思い浮べてはすまないような気がした

 

文芸にも哲学にも縁のない彼らは、この味を舐め尽しながら、自分で自分の状態を得意がって自覚するほどの知識を有たなかったから、同じ境遇にある詩人や文人などよりも、一層純粋であった。――これが七日の晩に坂井へ呼ばれて、安井の消息を聞くまでの夫婦の有様であった。

 

彼はこれほど偶然な出来事を借りて、後から断りなしに足絡をかけなければ、倒す事のできないほど強いものとは、自分ながら任じていなかったのである。自分のような弱い男を放り出すには、もっと穏当な手段でたくさんでありそうなものだと信じていたのである。

 

昔し京都にいた時分彼の級友に相国寺へ行って坐禅をするものがあった。当時彼はその迂濶を笑っていた。「今の世に……」と思っていた。その級友の動作が別に自分と違ったところもないようなのを見て、彼はますます馬鹿馬鹿しい気を起した。
 彼は今更ながら彼の級友が、彼の侮蔑に値する以上のある動機から、貴重な時間を惜しまずに、相国寺へ行ったのではなかろうかと考え出して、自分の軽薄を深く恥じた。

 

彼は考えながら、自分は非常に迂濶な真似をしているのではなかろうかと疑った。火事見舞に行く間際に、細かい地図を出して、仔細に町名や番地を調べているよりも、ずっと飛び離れた見当違の所作を演じているごとく感じた。

 

「書物を読むのはごく悪うございます。有体に云うと、読書ほど修業の妨になるものは無いようです。私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当がつきません。それを好加減に揣摩する癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界を予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫ができます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。もし強いて何か御読みになりたければ、禅関策進というような、人の勇気を鼓舞したり激励したりするものが宜しゅうございましょう。それだって、ただ刺戟の方便として読むだけで、道その物とは無関係です」

話に出てくる『碧巌』と『禅関策進』

碧巌録〈上〉 (岩波文庫)

碧巌録〈上〉 (岩波文庫)

 
禅の語録 19 禅関策進 (シリーズ・全集)

禅の語録 19 禅関策進 (シリーズ・全集)

 

 

食後三人は囲炉裏の傍でしばらく話した。その時居士は、自分が坐禅をしながら、いつか気がつかずにうとうとと眠ってしまっていて、はっと正気に帰る間際に、おや悟ったなと喜ぶことがあるが、さていよいよ眼を開いて見ると、やっぱり元の通の自分なので失望するばかりだと云って、宗助を笑わした。

 

「ようやくこの頃になって少し楽になりました。しかしまだ先がございます。修業は実際苦しいものです。そう容易にできるものなら、いくら私共が馬鹿だって、こうして十年も二十年も苦しむ訳がございません」
 宗助はただ惘然とした。自己の根気と精力の足らない事をはがゆく思う上に、それほど歳月を掛けなければ成就できないものなら、自分は何しにこの山の中までやって来たか、それからが第一の矛盾であった。
「けっして損になる気遣はございません。十分坐れば、十分の功があり、二十分坐れば二十分の徳があるのは無論です。その上最初を一つ奇麗にぶち抜いておけば、あとはこう云う風に始終ここにおいでにならないでも済みますから」

 

彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦すくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

 

 

カエルの夫婦の話。

「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦が皺だらけになって生きていたって、別におめでたくもありませんが、そこが物は比較的なところでね。私はいつか清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」と変な方面へ話を持って行った。こういう風に、それからそれへと客を飽かせないように引張って行くのが、社交になれた主人の平生の調子であった。
 彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝のような細い流の中に、春先になると無数の蛙が生れるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠の中で成立する。そうしてそれらの愛に生きるものが重ならないばかりに隙間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互に睦まじく浮いていると、通り掛りの小僧だの閑人が、石を打ちつけて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数がほとんど勘定し切れないほど多くなるのだそうである。
「死屍累々とはあの事ですね。それが皆夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分らないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのが悪らしいって、石で頭を破られる恐れは、まあ無いですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、全くおめでたいに違ありませんよ。だから一切ぐらい肖っておく必要もあるでしょう」と云って、主人はわざと箸で金玉糖を挟んで、宗助の前に出した。宗助は苦笑しながら、それを受けた。

 

 翌日の晩宗助はわが膳の上に頭つきの魚の、尾を皿の外に躍らす態を眺めた。小豆の色に染まった飯の香を嗅いだ。御米はわざわざ清をやって、坂井の家に引き移った小六を招いた。小六は、
「やあ御馳走だなあ」と云って勝手から入って来た。

 

ある日曜の午宗助は久しぶりに、四日目の垢を流すため横町の洗場に行ったら、五十ばかりの頭を剃った男と、三十代の商人らしい男が、ようやく春らしくなったと云って、時候の挨拶を取り換わしていた。若い方が、今朝始めて鶯の鳴声を聞いたと話すと、坊さんの方が、私は二三日前にも一度聞いた事があると答えていた。
「まだ鳴きはじめだから下手だね」
「ええ、まだ充分に舌が回りません」
 宗助は家へ帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。